歴史さんぽコース
高輪コース①
江戸時代は江戸の町外れで、町人町の他にも高台には諸藩の下屋敷が置かれたことから、明治時代以降に財界人などの邸宅が建ち並ぶ地となった地域です。このため、今でも都心の著名な住宅街の一つとして知られており、2012年と2014年に『週刊ダイヤモンド』誌が行った調査では、上場企業の社長/会長が多く住む街ランキング第1位になっているようです
高輪 / 約2.3km / 約45分
歩く順番
スタート

三味線は、日本を代表する楽器として世界にも知られています。13世紀頃に中国で三弦として生まれ、琉球を経て、16世紀頃に摂津国堺へ伝わり、京阪地方の琵琶法師によって用いられました。
その後、石村検校がさまざまな技法を取り入れ、その技術を受け継いだ石村近江が多くの名器を制作し、邦楽の発展に貢献しました。三味線の始祖とされる石村近江は、号を浄本、通称を源左衛門といい、京都から江戸へ移り住んで三味線を完成させ、「浄本近江」と呼ばれた名工です。1636年3月2日に亡くなりました。
石村家では代々「近江」の名が受け継がれ、とくに2代浄本から5代まで名工が続き、古今無双と称される名器を世に送り出しました。石村近江の墓は本堂裏手の墓地にあり、記念碑も建てられています。
1652年(承応元年)の草創と伝えられています。美しい乙女の姿で魚の入った竹籠(魚籃)を持った「魚籃観世音菩薩」を本尊としており、この観音様の名が付近の「魚籃坂(ぎょらんざか)」の由来となっています。江戸三十三箇所観音霊場の第25番札所としても知られています。
大正時代の東宮御所で、かつては高松宮宣仁親王・同妃喜久子さまのお住まいとして使われました。現在は、宮内庁が管理する仮住まい・活動拠点となっています。
1931年から高松宮ご夫妻が使用されていたため、戦前は「高輪御殿」とも呼ばれました。2020年3月から2022年4月にかけて、上皇上皇后両陛下が現在の仙洞御所へ移られるまでの「仙洞仮御所」として使用されました。他の宮邸の改修などに伴う一時的な仮住まい先として活用されており、三笠宮家の信子さまなども仮御所として利用されています。

この場所は、赤穂事件の後、大石内蔵助良雄をはじめとする17人が預けられた、肥後熊本藩細川家下屋敷の一部です。赤穂事件とは、1701年3月14日に起きた殿中刃傷事件と、翌年12月14日夜から15日にかけて行われた吉良邸討ち入り、それに続く一連の出来事を指します。
当時の細川家第5代藩主・綱利は、老中の稲葉丹後守から預かりを命じられると、大目付・仙石伯耆守の屋敷へ総勢875人の藩士と駕籠を送り、17人の引き渡しを受けました。これほどの大人数を派遣したのは、大藩としての威勢を示すとともに、上杉家による襲撃を警戒したためといわれています。細川家は17人を厚く遇し、預かった4家のうち、到着したその日に藩主が直接面会したのは細川家だけでした。
1703年2月4日午後2時、幕府の上使である御目付・荒木十左衛門政羽と御使番・久永内記信豊から切腹を申し渡されました。大石内蔵助は一同を代表し、切腹を命じられたことをありがたく受ける旨の礼を述べたと伝えられています。切腹が行われた場所は、大書院舞台側にある大書院上の間の前庭で、背後に池を控えた位置でした。この地は東京都指定旧跡となっています。
丸山神社は、天照皇大神、宇迦之御魂命、誉田別尊、白山比咩命、天児屋根命、秋葉大神を御祭神として祀る神社です。
1594年、芝西久保丸山竜土にあった曹洞宗・常陸永厳寺の末寺、医王山広岳院の境内に、徳川家康の命を受けた広岳院開基の全梁が創祀したと伝えられています。1653年、江戸城下の整備に伴い、丸山神社と広岳院は芝二本榎に9,405坪の替地を与えられ、現在の高輪1丁目付近へ移転しました。1922年の関東大震災で建物が大きな被害を受けましたが、1928年に各建物が再建されました。
興意法親王は、1576年に誠仁親王の第5王子として生まれました。1610年に近江の園城寺長吏となりましたが、1614年、豊臣氏が建立した方広寺大仏殿の棟札へ前例のない銘文を記したことや、徳川氏を呪詛(じゅそ)したとの疑いを受け、蟄居(ちっきょ)しました。その後、疑いが解かれ、幕府の寄進によって京都・白川に照高院を再建しています。
1620年に江戸へ下向し、宿舎としていた西久保丸山の英宗寺で急死しました。1653年、寺地の移転に伴って墓も改葬され、現在の場所へ移されました。※墓所内部へ立ち入ることはできません。

松光寺は1563年に芝西久保巴町、現在の虎ノ門付近で「頂本寺」として創建された浄土宗の寺院です。江戸時代になると、明石城主の母である松光院の菩提寺となり、その法号にちなみ寺号を「松光寺」と改めました。
慶安年間、第4代将軍・徳川家綱の時代に現在の高輪へ移転しました。

