歴史さんぽコース
芝浦①
港区芝浦を歩くコースです。
芝浦 / 約2.6km / 約55分
歩く順番

この場所は、1925年3月22日に日本で初めてラジオの放送電波が発信された、放送発祥の地です。東京放送局、現在のNHKが、当時ここにあった東京高等工芸学校の図書室を仮放送所として使用し、「JOAK」の呼出符号とともにラジオ放送の第一声を送り出しました。放送開始30周年を記念して、この地に「放送記念碑」が建立されました。

東京高等工芸学校は1921年に芝浦で創設された学校で、現在の千葉大学工学部につながっています。先駆的で体系的なデザイン教育を行い、日本のデザインの発展に大きな役割を果たしました。
1944年に東京工業専門学校へ改称し、1945年5月の東京大空襲で校舎を焼失しました。同年10月、松戸市岩瀬にあった陸軍工兵学校の校舎へ移転しました。
1949年の学制改革で千葉大学工芸学部となり、1951年に工学部へ改称しました。1964年に千葉市へ移転するまで、約20年間にわたり松戸を拠点としていました。
プラタナス公園
芝浦桟橋

この一帯は大正時代から埋め立てが進められ、1910年代には東京市電の車両工場「芝浦工場」が建設されました。東京市電は戦時中に東京都電車、通称「都電」となりました。芝浦工場へ向かう回送線は「芝浦線」と呼ばれていました。
現在も道路上には、分岐器の跡やアスファルトから一部が露出したレールなど、かつての軌道の痕跡が残っています。船路橋付近の説明板には、芝浦工場と再開発の経緯が記され、当時使われていたレールの断面も保存されています。

日本初の南極探検は1910年に白瀬矗を隊長とする27名の隊員によって行われました。一行は同年11月28日、芝浦から204トンの小型帆船「開南丸」で出航しました。ニュージーランドのウェリントンやオーストラリアのシドニーを経て、船の修理や物資の補給を行いながら南極を目指しました。
1912年1月16日に南極大陸の鯨湾へ上陸し、白瀬隊長ら5名はそりで氷原を進みました。同月28日、南緯80度5分・西経156度34分に到達して日章旗を掲げ、その一帯を「大和雪原」と命名しました。沿岸探検や天文・気象観測などでも成果を挙げ、一行は同年6月20日に全員無事に芝浦へ帰港しました。
芝浦球場は、早稲田大学野球部OBの河野安通志らが結成した、日本初のプロ野球球団とされる「日本運動協会」の専用球場です。通称「芝浦協会」と呼ばれた同球団の本拠地として、1921年に芝浦の埋め立て地へ建設されました。木造スタンドを備え、約6,000人を収容できました。
1923年の関東大震災では、救援物資の保管・輸送拠点として軍に接収され、その後も返還されないままスタンドが撤去され、跡地には倉庫などが建てられました。球団は阪神急行電鉄社長の小林一三に引き取られ、兵庫県宝塚市で「宝塚運動協会」として活動を続けました。現在、跡地付近には日本初のプロ野球チーム発祥の地を示す記念碑があります。
コカ・コーラは、1886年にアメリカ・ジョージア州アトランタの薬剤師ジョン・S・ペンバートンが開発しました。日本には1920年頃に輸入され、明治屋や満平薬局で販売されたとされています。
1956年11月12日、髙梨仁三郎によって東京飲料株式会社がこの地に設立され、日本で初めてコカ・コーラの製造・販売を担うボトリング会社となりました。翌年、髙梨の交渉によってフランチャイズ権を取得しましたが、当初の販売先は、外国人客の多いホテルやゴルフ場、外国人学校など全国96か所に限られていました。
同社は1962年に東京コカ・コーラボトリング株式会社へ社名を変更しました。建物1階ロビーには「日本におけるコカ・コーラ事業の父」とされる髙梨仁三郎の胸像が置かれ、1974年竣工の旧本社に掲げられていた社名碑も保存されています。

この一帯には江戸時代、「雑魚場」と呼ばれる魚市場がありました。将軍家へ魚介類を納めた「御菜八ヶ浦(おさいはちがうら)」のうち、本芝浦と金杉浦の漁民が東海道沿いで雑魚を中心に売ったことから、この名が付いたとされています。当時は海に面した江戸有数の漁港で、古典落語「芝浜」の舞台としても知られます。
1872年に新橋―横浜間の鉄道が開通すると、線路が海岸の堤防上に敷かれたため、雑魚場は鉄道より内陸側となりました。それでもガード下を通じて海とつながる入り江が残り、船が係留されていました。
その後、漁獲量の減少や周辺の埋め立てにより漁業は衰退し、1970年に入り江も埋め立てられて本芝公園となりました。現在は船をかたどった遊具や貝をモチーフにした噴水が、かつて海辺だった歴史を伝えています。

1868年3月、江戸城総攻撃を前に、幕府側の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛が会談し、江戸無血開城へ向けた最終調整を行いました。現在の田町駅近くには、西郷隆盛の孫・西郷吉之助の書による「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 會見之地」の碑が建っています。
ただし、会談場所については高輪の薩摩藩邸や愛宕山など複数の説があります。これは、当事者が残した記録の内容が完全には一致していないためです。一般には、3月13日の予備会談が高輪の薩摩藩邸、14日の最終会談がこの碑の建つ田町の薩摩藩蔵屋敷で行われたと考えられています。