歴史さんぽコース
六本木~南麻布~広尾
六本木ヒルズから元麻布・南麻布経由で広尾駅まで歩くコースです。
/ 約2.4km / 約50分
歩く順番
六本木ヒルズ森タワー
日露戦争の英雄として知られる軍人・乃木希典が生まれた場所を示す石碑です。1932年に現在の港区六本木に建てられ、2003年の六本木ヒルズ再開発に伴って現在の「さくら坂公園(ロボロボ公園)」内に移設されました。この地は、かつて長府藩(長州藩の支藩)の上屋敷があった場所です。乃木希典は1849年(嘉永2年)にこの藩邸内で誕生しました。この場所は赤穂浪士が切腹した屋敷跡としても知られており、幼少期の乃木に大きな影響を与えたと言われています。
細い道(階段)
宮村坂とサンマリノ大使館
行き止まり
1921年(大正10年)に建てられた歴史的な洋館です。明治の元勲・松方正義の五男である松方正熊・美代子夫妻の私邸として建設され、現在は「西町インターナショナルスクール」の校舎(本館)として使用されています。この建物は西洋建築を日本に多く残したアメリカ人建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計を手掛けました。
麻布広尾町(あざぶひろおちょう)
地名の起源には種々の説があります。もとは広岡、平尾、広野などといわれていますが定かではありません。現在の渋谷区へまたがる低地一帯は広尾原と呼ばれ、江戸時代初期は荒野であったと想像されます。1673年から1681年ごろまでに、現在の有栖川宮記念公園入口付近に百姓町屋ができあがり、それ以外は武家地と畑地が半々くらいでした。1713年、町奉行の支配となり麻布広尾町というようになりました。
麻布新広尾町一丁目~三丁目(あざぶしんひろおちょういっちょうめからさんちょうめ)
古川沿いの土地で、天現寺橋から一の橋に至る長い町域をもっています。麻布新広尾町としたのは、麻布広尾町の人が移転しはじめたことによるものらしく、番地も広尾町が79番地で終わるのに対し、新広尾町は80番地から始まっています。
麻布新堀町(あざぶしんぼりちょう)
町は東流してきた古川が北へ屈曲する部分の左岸にあります。江戸時代初期から町域のほとんどが武家屋敷でした。1872年、武家地を合併して麻布新堀町となりました。町名は、町の東と南の二方が新堀川、すなわち古川に沿うことに由来します。
麻布竹谷町(あざぶたけやちょう)
町名は、古来、里俗に竹ヶ谷と呼んだことに由来します。別に「ねくるみ村」とも呼ばれ、うぐいすの名所として巣立野とも呼ばれました。1872年、武家地を合併して麻布竹谷町となりました。
麻布田島町(あざぶたじまちょう)
1688年から1736年にかけて新堀向と俗称したようですが、近傍に三田龜塚の代地二か所、西久保天徳寺領屋敷があるのを併せて田島町を名乗ったといいます。そのころ周囲はなお田であったため、「田の中の島のような町」という意味だという説もありますが、はっきりしていません。
麻布富士見町(あざぶふじみちょう)
盛岡町の台地が古川へ望む傾斜地で、富士山がよく望見できたといいます。1698年、将軍家の別荘である白銀御殿ができました。富士見町の名は1872年につけられましたが、白銀御殿の別名である富士見御殿にちなんだものだといいます。
麻布本村町(あざぶほんむらちょう)
古川の谷へ南面する台地から傾斜地にかかっており、古くから住居に適した土地に選ばれたことは貝塚の存在からもわかります。阿佐布という地名は当初このあたりを指したものと推定され、本村とは元村、すなわち麻布の中心の意味といわれています。
麻布盛岡町(あざぶもりおかちょう)
1673年から1681年には、すでに奥州南部藩南部氏の邸地となっており、そのまま明治維新まで続きました。1872年、盛岡町と命名したのは、南部氏が盛岡城主であったためです。