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歴史さんぽコース

日本橋川(日本橋~俎板橋)

日本橋川を日本橋から俎板橋まで史跡をめぐりながら歩くコースです。

日本橋・大手町・神田・神保町・九段下 / 約3.2km / 約65分

地図を読み込み中です。

歩く順番

1

にほんばしうおがしあと

日本橋魚河岸跡

【自動入力】日本橋魚河岸跡は、江戸時代から大正期まで魚市場があった場所です。江戸城へ魚を納めるため、摂津国佃村から移った漁師らの活動などを背景に魚河岸が発展し、江戸の食を支える一大市場となりました。日本橋川沿いの水運を利用して魚が運ばれ、周辺の商人や料理屋へ流通しました。1923年の関東大震災後、市場機能は築地へ移り、現在は碑が江戸・東京の食文化と物流の中心地だった歴史を伝えます。

2

にほんこくどうろげんぴょう

日本国道路元標

日本国道路元標

【自動入力】日本国道路元標は、日本橋に置かれた日本の道路網の基準点です。江戸時代、日本橋は五街道の起点でしたが、近代以降も国道の起終点を示す場所として位置づけられました。現在の道路元標は橋の中央部に埋め込まれ、複製が橋詰に展示されています。道路元標は、江戸の街道制度が近代の国道制度へ受け継がれたことを示し、日本橋が交通の中心であり続けた歴史を物語ります。

3

ときわばしいしばし

常磐橋(石橋)

常磐橋(石橋)

常盤橋門は、江戸時代を通じて火災や地震でたびたび損傷を受け、石垣の大規模改築が3回行われました。

明治以後、堀に架かっていた木橋は1877年に石橋へ架け替えられ、以後、石橋を指す表記として「常磐橋」が使われるようになりました。その後、関東大震災で被災して崩落の危険がありましたが、市民団体を中心に保存が呼びかけられ、国史跡に指定された後、復旧整備が行われました。

2011年の東日本大震災では、枡形石垣や常磐橋が大きな被害を受け、2012年から2020年まで枡形石垣と石橋の修理事業が行われました。修理事業の調査では、現在の状況や過去の修理状況、旧小石川門の石材を転用して基礎を築いていたことなどが確認されました。

4

かんだかまくらちょう

町名由来板:神田鎌倉町

町名由来板:神田鎌倉町

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の命により徳川家康は関東二百四十万石の領主として江戸城に入りました。当時の城は、室町時代の武将太田道灌が築いた城塞を、後北条氏が整備しただけの粗末なものでした。慶長8年(1603年)、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になった家康は、江戸に幕府を開き、町の整備とあわせて以後三代にわたる城の普請に乗り出します。

家康入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸」と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられたとされています。明暦三年(1657年)の「新添江戸之図」には、すでに「かまくら丁」の名が記載されています。

江戸城築城に際して、家康が近江から連れてきた甲良家も、町内に住まいがあったと伝えられています。甲良家は、作事方の大棟梁として腕をふるい、江戸城をはじめ、増上寺、日光東照宮などの幕府関連施設の建設に力を尽くしました。

また、町内には、古くからさまざまな逸話を残す寺社があります。尾嶋公園のそばにある「御宿稲荷神社」もそのひとつです。家康が関東の新領国を視察した際に、先発隊として来ていた家臣の家に宿をとりました。のちにその庭の祠が御宿稲荷として信仰されるようになり、幕府より家康の足跡を記念して社地を寄進されました。

昔、潮入りの葦原だったこの周辺で、漁業を営む人々が篤い信仰を寄せていた「浦安稲荷神社」も、かつてはこの町にありました。この祠は、天保14年(1843年)に遷座され、現在は神田明神の境内にあります。

「出世不動尊」は、一橋徳川家の表鬼門除けとして祀られていたとされています。本尊は、平安時代の僧智証大師の作と伝えられています。不動尊前の「出世不動通り」は、当時毎月二十七日に縁日が開かれ、たいへんな盛況だったようです。

5

みずべくうかんのへんせん(かまくらばしあと)

水辺空間の変遷(鎌倉橋)

水辺空間の変遷(鎌倉橋)
6

しょうないはんさかいけかんだかみやしきあと

庄内藩酒井家神田上屋敷跡

庄内藩酒井家神田上屋敷跡

【自動入力】庄内藩酒井家神田上屋敷跡は、江戸時代に出羽庄内藩酒井家の上屋敷が置かれた場所です。上屋敷は藩主が江戸で居住し、江戸城への登城、幕府との儀礼、藩政連絡を行う政治拠点でした。神田・大手町周辺には多くの大名屋敷が置かれ、江戸城を中心に藩邸が配置されていました。この跡は、現在の業務地区の下に、参勤交代制度と大名統制の都市構造が重なっていることを示します。

7

大手町川端緑道

8

ひとつばしもんあと

一橋門跡

一橋門跡

一橋門は、徳川家が江戸城に入ったころにはすでに架けられており、大きな丸木が一本架けられただけの橋であったことから、この名がつけられたといわれています。17世紀中頃には、付近に松平伊豆守の屋敷があったため、伊豆殿橋とも呼ばれました。

清水家、田安家と並んで徳川御三卿と称された一橋徳川家の屋敷は、1740年から門内にありました。門の石垣は1629年に築造され、1873年に撤去されました。現在では、川岸にわずかな高石垣だけが残っています。

現在の橋は、1925年に架けられた関東大震災の復興橋梁の一つです。都内に造られた12のラーメン橋台橋のうち、唯一当時の姿を今に残すものです。

9

きじばしもんあと

雉子橋門跡

橋名は家康が朝鮮からの使節をもてなすための雉を、この付近の鳥小屋で飼育したことに由来します。1629年に江戸城外郭門の一つである雉子橋門が築造され、橋が架けられました。橋は1903年に鉄橋へ改架されましたが、1923年9月1日の関東大震災で被災したため、1926年に新たに架けられました。これが現在の橋です。

10

爼橋児童遊園

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