歴史さんぽコース
★日本橋歴史散歩★
日本橋 / 約3.9km / 約80分
歩く順番
日本橋(花の広場)

【自動入力】日本国道路元標は、日本橋に置かれた日本の道路網の基準点です。江戸時代、日本橋は五街道の起点でしたが、近代以降も国道の起終点を示す場所として位置づけられました。現在の道路元標は橋の中央部に埋め込まれ、複製が橋詰に展示されています。道路元標は、江戸の街道制度が近代の国道制度へ受け継がれたことを示し、日本橋が交通の中心であり続けた歴史を物語ります。
【自動入力】日本橋魚河岸跡は、江戸時代から大正期まで魚市場があった場所です。江戸城へ魚を納めるため、摂津国佃村から移った漁師らの活動などを背景に魚河岸が発展し、江戸の食を支える一大市場となりました。日本橋川沿いの水運を利用して魚が運ばれ、周辺の商人や料理屋へ流通しました。1923年の関東大震災後、市場機能は築地へ移り、現在は碑が江戸・東京の食文化と物流の中心地だった歴史を伝えます。

熈代勝覧は、文化2年(1805)頃の日本橋通りを描いた絵巻です。原本はドイツで発見され、現在はベルリン国立アジア美術館が所蔵します。日本橋駅地下コンコースには複製絵巻が展示され、江戸の町人、商店、屋台、荷車、職人、武士など多様な人々の姿を確認できます。江戸中心部の商業と日常生活を視覚的に伝える資料です。

三井本館は、旧三井財閥の拠点として1929年に完成した歴史的建築です。花崗岩の外壁とコリント式の大列柱を備えたアメリカン・ネオクラシック様式で、「壮麗・品位・簡素」という設計理念が表現されています。
1998年には、大規模オフィスビルとして日本で初めて国の重要文化財に指定されました。地下には総重量約50トンの大扉を持つモスラー社製大金庫が残り、館内には三井家旧蔵の美術品を展示する三井記念美術館もあります。現在は三井不動産の本社が置かれています。

日本銀行本店本館は、明治29年(1896)に竣工した日本銀行の本店建築です。設計は辰野金吾で、ベルギー国立銀行を参考にした石積み煉瓦造のネオ・バロック様式を採ります。明治政府が中央銀行制度を整備する中で建てられた建物で、昭和49年(1974)に国の重要文化財へ指定されました。近代日本の金融制度と建築技術を伝えます。
日本橋本町一帯は、徳川家康の江戸入府後、江戸で最初期に町割が行われた地域です。江戸城の大手口に近い常盤橋御門から奥州街道・日光街道へ続く道沿いに街区が整備され、江戸の町人地と都市計画の起点になりました。
家康は大坂などから商人を呼び寄せ、薬種商もこの地に集めたため、現在まで続く「くすりの街・日本橋本町」の基礎が築かれました。本町から京橋へ延びる通りは、江戸初期の主要な商業街路として発展しました。
福徳神社は、平安時代から続くと伝わる日本橋の古社で、倉稲魂命を主祭神としています。徳川家康も参拝し、2代将軍徳川秀忠が鳥居のクヌギから芽が出ているのを見て「芽吹稲荷」と称したと伝わります。
江戸時代には富くじ興行を許された数少ない寺社の一つで、現在も宝くじや各種チケットの当選祈願、商売繁盛、金運向上を願う参拝者が多く訪れます。境内には、江戸時代の和算文化を伝える算額も奉納されています。

日本橋本町は、江戸時代に全国の薬草や漢方薬原料を扱う薬種問屋が集まった、日本最大級の「くすりの街」でした。徳川家康による城下町整備の初期から町人地として発展し、目薬「五霊膏」の製造・販売が奨励されたことも、薬種商集積のきっかけとされます。
特に本町三丁目には薬種店が密集し、薬草の匂いが通りに漂うほどのにぎわいでした。幕府は和薬改会所を設けて品質を検査し、問屋組合に販売権を与えました。現在も製薬会社や関連企業が集まり、創薬・ライフサイエンスの拠点として発展しています。

【自動入力】小津和紙・小津史料館は、日本橋本町で和紙を扱ってきた老舗・小津和紙の店舗と史料館です。小津は承応2年(1653)創業とされ、江戸の紙商として商いを続けました。史料館では店の歴史、帳簿、看板、和紙文化に関わる資料を展示し、日本橋の問屋商業と和紙流通の歴史を現在に伝えています。

【自動入力】小伝馬町牢屋敷展示館は、伝馬町牢屋敷の歴史を紹介する展示施設です。牢屋敷は江戸幕府の刑事施設で、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎ら安政の大獄に関わる人物も収容・処刑されました。展示では牢屋敷の配置や関連人物、処刑場跡を示す資料を通して、江戸の司法制度と幕末政治弾圧の現場を知ることができます。

【自動入力】松陰先生終焉の地は、吉田松陰が安政の大獄により処刑された伝馬町牢屋敷跡に関わる地点です。吉田松陰は長州藩士で、松下村塾を主宰し、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文ら幕末の志士に影響を与えました。安政6年(1859)に江戸で処刑され、終焉の地は幕末政治弾圧と明治維新へつながる思想の記憶を伝えます。
【自動入力】富塚碑は、日本橋富沢町の地名と地域の歴史を伝える石碑です。富沢町は江戸時代から古着、織物、問屋商いと関わりの深い町で、周辺には商人の信仰や町の繁栄を祈る石造物が残りました。碑は、現在のオフィス街の中に、繊維商いで栄えた日本橋東部の町人地の記憶をとどめています。

江戸時代初期、現在の中央区日本橋人形町3丁目8番付近には、幕府の医師・岡本玄冶の屋敷があり、その名から「玄冶店」と呼ばれていました。岡本玄冶は1587年に京都で生まれ、曲直瀬玄朔に医術を学びました。1623年、京都を訪れた徳川家光に侍医として招かれて幕府の医師となり、のちに法眼から法印へ進み、啓迪院と号しました。
家光から厚く信頼され、『寛政重修諸家譜』には、家光が重い病にかかった際、ほかの医師では効果がなかったところを玄冶が薬によって回復させ、その功績により白銀200枚を与えられたと記されています。岡本玄冶の屋敷は、表京間60間、奥行京間25間、面積約1,500坪の広さがあり、子孫は明治維新まで9代にわたってこの地に住んだと伝えられています。玄冶は1645年に亡くなり、広尾の祥雲寺に葬られました。
玄冶店の名は、三代目瀬川如皐が脚色し、1853年に中村座で初演された歌舞伎『与話情浮名横櫛』によって広く知られるようになりました。お富と与三郎の恋物語の舞台の一つとして、玄冶店が登場します。
【自動入力】人形町の由来は、江戸時代にこの地域に人形師や人形芝居関係者が多く住んだことを説明する案内です。元吉原や芝居小屋に近い町として、人形浄瑠璃、操り人形、人形製作に関わる職人が集まりました。昭和8年(1933)に人形町の町名が成立し、現在も甘酒横丁や水天宮周辺の商業地に江戸の芸能・職人町の記憶が残ります。
【自動入力】西郷隆盛屋敷跡は、明治初期に西郷隆盛が東京で住んだ屋敷地に関わる史跡です。西郷は明治政府の参議として新政府の制度づくりに関わり、廃藩置県や征韓論をめぐる政治の中心にいました。日本橋人形町周辺の屋敷跡は、江戸の町人地だった地域に明治政府高官の住まいが置かれたことを示します。
1466年に悪疫鎮静を願って創建されたと伝わる神社で、稲荷神を主祭神としています。太田道灌の崇敬も篤く、「小網神社」の社名も道灌が名付けたといわれます。境内には、かつて同地にあった万福寿寺で祀られていた、健康長寿の福禄寿と、財運向上・学芸成就の弁財天も祀られています。1929年建立の社殿が戦災を免れたことや、御守を受けて出征した兵士が全員無事帰還したという伝承から、近年は「強運厄除の神」として広く信仰されています。

この付近には、江戸時代初期に日本橋川から北西へ引き込む形で開削された入堀があり、「東堀留川」や「堀江町入堀」と呼ばれていました。江戸の主要な通りであった本町通りや通町筋に隣接していたため、全国から運ばれた荷物を保管する場所として利用されました。入堀の西側にあった堀江町の河岸には問屋が立ち並んでいたといわれています。「堀留」の名は、この入堀が旧堀留町二丁目付近で行き止まりになっていたことに由来します。
明治初期から洋鉄の輸入が始まり、その量が増えるにつれて、重量物である鉄鋼製品の輸送や荷揚げに適した東堀留川が広く利用されました。河岸には鋼材を扱う市場が形成され、周辺には多くの問屋が集まりました。明治初期には東京府が編さんした『東京府志料』に「堀江町入堀」と記されていましたが、1883年に正式名称が「東堀留川」となりました。川は蛎殻橋、親父橋、万橋を経て、旧堀留町二丁目付近まで続いていました。
1923年の関東大震災後、東京市では旧市街地や街路を再編する復興事業が進められました。この事業によって東堀留川には堀橋を含む3つの橋が新設され、万橋より北側の堀割は埋め立てられました。1945年の終戦後には、戦災で生じた残土を処理するため都心部の河川を埋め立てる計画が進められ、東堀留川も対象となりました。埋め立ては1948年に始まり、翌年8月に完了しました。現在は旧堀割の一部が堀留児童公園として整備され、かつての東堀留川をイメージした水路も設けられています。
【自動入力】伊勢町堀跡は、日本橋本町・小網町周辺にあった西堀留川系の堀割跡です。江戸時代、この付近には伊勢出身の商人が多く住んだことから伊勢町の名が生まれたとされます。堀は物資を船で運び込むための水路で、蔵や問屋が並ぶ日本橋商業地を支えました。埋立て後も町名や道筋に水運の記憶が残ります。