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歴史さんぽコース

白金長者丸コース

恵比寿駅から白金台駅までの散歩ルートです。白金長者丸エリアを歩きます。

恵比寿~白金台 / 約2.1km / 約45分

地図を読み込み中です。

歩く順番

1

かげおかちいさいあきこうえん

景丘ちいさい秋公園

中田喜直は、1923年に渋谷町の恵比寿で生まれた作曲家です。父の中田章は『早春賦』の作曲者として知られ、兄も作曲家・ファゴット奏者でした。幼い頃から音楽に親しみ、青山学院や東京音楽学校を経て、戦後は本格的に作曲活動を始めました。

作品には『夏の思い出』『めだかの学校』『かわいいかくれんぼ』『ちいさい秋みつけた』『雪の降る街を』などがあり、親しみやすい旋律で広く知られています。区内の長谷戸小学校や幡代小学校の校歌も手がけました。

この場所は中田喜直の住居跡で、近くの公園名「景丘ちいさい秋公園」は、代表曲『ちいさい秋みつけた』にちなみ名付けられました。

2

つうふうとうかぶと

通風筒カブト

通風筒カブト

かつてこの地にあったビール工場の製麦乾燥室の屋根に取り付けられていた重要な遺産です。ビールの原料である麦芽(モルト)を乾燥させる工程で発生する、熱や香りを効率よく逃がしつつ、雨が工場内に入り込むのを防ぐ役割を果たしていました。1914年(大正3年)にドイツから輸入されたもので、中世ヨーロッパの騎士が被る兜(ヘルメット)のような特徴的な形をしています。風向きに合わせて兜の向きが回転する仕組みになっていました。この特徴的な形状から「カブト煙突」とも呼ばれ、1973年(昭和48年)に工場が解体されるまで、恵比寿地域のランドマークとして親しまれました。

3

うまこしきょうへいぞう

馬越恭平像

馬越恭平像

馬越恭平(1844~1933)は、備中国に生まれた実業家です。三井物産在籍中の1892年、創業5年目で経営危機に陥っていた日本麦酒醸造会社の社長に就任し、短期間で再建を成し遂げました。その後41年間にわたり社長を務め、1906年には札幌麦酒、大阪麦酒との3社合併によって大日本麦酒を設立しました。同社を日本のビール生産量の約7割を占める大企業へ成長させ、日本で初めてビヤホールを設けるなど多くの業績を残し、「東洋のビール王」と呼ばれました。

4

ウェスティンホテルを通り抜ける地下通路

5

ちょうじゃまる

長者丸

このあたりは白金長者が住んでいたエリアで「長者丸」という名前をよく目にします。白金長者は江戸幕府の地誌編纂事業でまとめられた『御府内備考』に登場する伝承上の人物です。祖は柳下上総介とされ、応永年間に京都から下り、この地に住んだと伝えられています。「白金」は銀を意味し、「銀長者」が転じて「白金長者」と呼ばれるようになったといわれています。国立科学博物館附属自然教育園内には白金長者邸跡があり、古城跡が残されています。また、太田道灌のひ孫である新六郎などの豪族がこの地を治めていた記録もあり、白金長者に関する言い伝えが残されています。

※特定の建物ではなくこのあたり一帯が対象です。

6

よしだやいちろうひ

吉田弥一郎碑

吉田弥一郎碑

この石碑は、旧称「長者丸」と呼ばれた地域を高級住宅地として開発した呉服商・吉田弥一郎の五周忌にあたり、借地人36名から献呈されたものです。吉田弥一郎は1857年1月13日に生まれ、1924年1月26日に亡くなりました。

銅柱の文章は、邦楽の友社発行『邦楽百科辞典』1022ページから復刻されたものです。そこには、弥一郎の跡を継ぎ、日本の伝統音楽や美術の保護に取り組んだ吉田幸三郎の事績が記されています。吉田幸三郎は1887年2月27日に生まれ、1980年3月7日に亡くなりました。

7

おかだ さぶろうすけしゅうえんのち

岡田三郎助終焉の地

岡田三郎助終焉の地

岡田三郎助は、1869年に佐賀藩で生まれた洋画家です。1908年頃にこの地へ移り住み、黒田清輝の「天真道場」の影響を受けた画風で制作を続けました。

代表作の一つに『北国の五月頃』があり、そのほかにも数多くの作品を残しました。1939年、71歳で亡くなりました。

8

まつおかびじゅつかん

松岡美術館

松岡美術館

松岡グループは、松岡清次郎が1917年に銀座で始めた貿易業を起点としています。1923年には横網で江東冷蔵製氷を創業し、1932年には銀座に松岡合資会社を設立して不動産賃貸業へ進出しました。戦後は首都圏を中心にオフィスビルや賃貸マンションを建設し、1967年には江東冷蔵製氷を品川埠頭へ移転して松岡冷蔵株式会社へ改称しました。

事業のかたわら、松岡清次郎は約半世紀にわたり美術品を収集しました。そのコレクションをもとに、1975年に新橋の自社ビル内へ松岡美術館を開館し、2000年には白金台の自邸跡地へ移転しました。

9

しろかねだいどんぐりじどうゆうえん

旧町名由来板:白金台どんぐり児童遊園

旧町名由来板:白金台どんぐり児童遊園

白金(しろかね)
このあたりの地名は古くから銀、白銀とも書かれました。室町時代から武蔵野で栄えた豪族の中に白金長者と呼ばれる人がおり、白金の地名の起こりになったといわれています。白金の台地部分は白金台と呼ばれ、江戸時代には大名の下屋敷や寺社が多くありました。その一部は自然教育園や瑞聖寺などとして残り、緑の豊かな歴史と文化を感じさせる地になっています。

芝白金三光町(しばしろかねさんこうちょう)
このあたりは江戸時代、大名の下屋敷の間に田畑が点在する郊外の景色が広がっていました。明治の初めに白金錦町、白金上三光町、白金下三光町ができました。明治24年(1891)、これに旧白金村の字である名光、東名光、西名光、箪古台(蜀江台)、松久保、雷神下を合わせ、白金三光町としました。三光の名は町内の三光坂からとられましたが、蛍の名所だった名光、東名光、西名光の三光によるとも考えられています。

芝白金台町(しばしろかねだいまち)
古くは一帯が草深い武蔵野台地の一部でした。江戸時代に入り、白金村のうち相模街道、現在の目黒通りに沿った地域が増上寺領となりました。人家が少なく物騒な地であったため、慶安4年(1651)に商人町屋にしたいと願い出て許されました。町名は白金の台地上にあることから白金台町とし、十一丁目まで分けられました。明治5年(1872)には一丁目から五丁目までと寺地を合わせて白金台町一丁目、六丁目から十一丁目までと武家地を合わせて白金台町二丁目としました。

芝白金今里町(しばしろかねいまざとちょう)
今里は白金村の東南に続いた地で、名の由来は延宝3年(1673)に新たに開墾された里だからとも、元禄8年(1695)に白金村から分かれたからともいわれ、元禄の頃には村名になっていました。村の中心を、多摩川上水から分水した三田用水が流れ、農業用水として使われていました。明治24年(1891)、旧白金村の字今里と玉縄を合わせて白金今里町としました。

芝白金猿町(しばしろかねさるまち)
昔、相模国へ続く中原道が二本榎通りから分かれ、五反田方面へ向かう街道筋にできた町がもとになりました。猿町の由来は白金台町を「去る」の意味とする説や、このあたりに新田義貞が武運長久を祈って安置した帝釈天の庚申信仰から庚申様といわれ、申町、猿町となったという説があります。

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